2003年1月17日

何か変わったのか…

友人などから言われる。「ページ、アップデートしてないね」。「何か変わったかい」と私は答える。未だに森南地区には空き地があり、被災したまま、崩れた塀の残骸もそのまま。我が家だって、まだ修理しきれていない箇所が多々ある。壁紙の破れたパネルの継ぎ目部分は、鳥取地震時に広がった。

新築の、まるでモデル住宅展示場のような街には、二重ローンを抱えた被災者たちのうめきが聞こえてくるような錯覚を覚える。震災直後から続く耳鳴りは未だに収まらない。五感の奥底に、あの時が刻まれていて、今年も、“その時”には目が覚めてしまった。

去る2003年1月14日、朝日新聞の記事が目にとまった。“慰霊碑刻む6433人目”。芦屋市長相手の訴訟で勝訴判決に対して成されていた芦屋市の上告が最高裁判所に棄却されたのだ。同市内の病院に入院中、地震で機器が外れたことが原因で亡くなった方が、ようやく震災犠牲者と認められたのだ。

一方、朝日新聞記事によれば、昨年1月から11月までの間の復興住宅での孤独死々者数は過去最多の67人。仮設住宅ではコミュニケーションがとれていた人々が、復興住宅に移ることで独居状態に戻ってしまった。もともと、都会的な団地など集合住宅型の住まいは、住民同士の交流遮断を容易にする特性があるようだが、こんな現状も然り。かといって、トタン屋根一枚、夏は灼熱冬は極寒の仮設住宅が終の住まいというわけには行かないだろうし、また、それではあまりに酷い。もともと、震災前から独居老人などの問題は、いずこの都市でも同じで、存在していた。「独居老人の孤独死」が、「被災者の、復興住宅での孤独死」に変わっただけなのだが、震災が、例え震災がなくても存在した、発生しただろう問題を、より顕著にした。

地震の後、救出しようとする家族を火災から助けようと自ら犠牲になり、生きたまま焼け死んだ方々がおられた。倒壊した家の下敷きになりながら、姉を励まし、自分は救出されず、焼かれた幼い弟もいた。他人事ながら、一日とて思い出さない日はないし、我が子とオーバーラップして涙も出る。こんな悲劇は二度とゴメンだ。

モノとしての家は、家族の生命を守るシェルターだ。そのシェルターが、周囲が壊れるときにそこだけ残ってはビジネスチャンスを逃すなどという感覚で作られていたのではたまらない。が、バブル当時はそんな感覚だった。図面・書類だけの建築基準審査は、震災が発生するまで、その強度計算が机上の空論であることを露呈しない。未だに建築途中での現地確認(米国では厳格に行われている)はないのだから、「日本は基準が厳しいから大丈夫」などという絵空事は、忘れたほうが良い。この国の立法府・行政府には、能書きで責任を逃れることしか頭にない。だから、八年も経ってようやく被災死者と認定される人が出たりするのだ。

ふと思い出した。直後の安否確認で本当に多くの電話を貰った。その時、今になって思うに、被災したこちらと、様子を聞く遠方の方々との間には、氷と沸騰した湯くらいの温度差があったなぁ、と。被災地で無事という一言は「命があった」を意味していた。遠方の方々にとってのそれは、被害がないことを意味していた。テレビが拡大して見せた、燃えた長田の惨状は、確かにテレビという映像では伝わりやすかっただろう。だが、二階家が平家になったような状態だった森南地区では、長田以上に多くの方々の御遺骸が、潰れた一階部分にあった。たまたま、遠隔地への映像で訴えるには、あまりに受信側の想像力を求める内容だっただけだ。神戸市全体に悲劇があった。そして、今でも、心には癒えぬ傷があり、生き残った現実がある。不景気と二重ローンが、モデルハウス展示場のような綺麗な家並みの陰を暗くみせる。どうか、遠方の方々には、報道をご覧になるとき想像力を精一杯働かせて欲しい、と思う。

人が一人では生きられないことは、その漢字そのものが表している。寄り合って支えあう、その単位が家族であり、地域であり、町や市でもある。これを引いて見ると国という単位になる。この国は、戦前・戦中と税金と命を国が取ってきた。戦後になって税だけになったかと思いきや、命も結局、変わってなかった。個人財産を補償しないという建前 ──そう国が言うときの財産の意味するところには、生命も含まれるらしい。例えそれが、国が定めた建築基準がきちんと履行されていなかった責任を、誰も取らないことを意味しているとしても。

2003年1月17日  参考:朝日新聞(地方面)


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©Daisuke Tomiyasu 1997