アーカンソー州。1803年にフランスから購入した土地の一部で、1819年に準州、1836年に25番目で州となった。が、1860年の選挙でリンカーン大統領が奴隷制度の保護を拒絶。
このことから、南部の生活様式が破壊されるのではないかという南部人の恐怖がつのり、リンカーンのその後の政策を待たず、1860年から相次いだ南部州の連邦脱退がおきた。
アーカンソーも1861年5月6日に連邦を脱退。事態は南北戦争へと発展した。
南北戦争の原因については諸説がある。が、背景に、悲しい奴隷制度の存在がないと言えるだろうか。
1619年、名もないオランダ船がこの大陸に「船荷」という感覚で「持ち込んだ」のが、奴隷だった。 が、19世紀初めには、奴隷制は実質的に不経済になっていたらしい。 つまり、何とも勝手な話ではあるが、南部白人は奴隷に食糧を与え、世話をすることが負担になっていたという。だが、イギリスやヨーロッパ大陸からの綿の需要が高まり、奴隷制は逆に促進されてしまう。 建国当時の奴隷制に関する憲法上の取り決めに満足のゆかなかった南部では、1860年までの間に、経済的な利害面で、あるいは感情的に、 連邦に反逆する方向に凝り固まってしまっていたようだ。サウスカロライナ州がチャールストン港にある連邦の要塞フォート・サムターを攻撃したことで始まった南北戦争は、1865年4月、 ヴァージニア州のアポマトックスでロバート・E・リー将軍がユリシーズ・S・グラント将軍に降伏して終わった。4年間の闘いで、従軍兵士の33〜40%が死傷した。 その数たるや、連邦軍死者35万9528人。南部連合軍死者は24万8000人。あまりにも大きな犠牲と、その悲惨さに、その後1世紀以上も双方にしこりを残すことになった。 写真は、とあるレストランに展示されていたアンティークコレクションの一つで、1829年の奴隷オークションの告示(DC-2)。もちろん、これは既に歴史であり、 その後、多元文化主義への努力をこの国が積み重ね続けているのは言うまでもない。
さて、その南北戦争に直接・間接に影響する綿の栽培が行われていたのは東部ミシシッピ流域。それ以外のエリアは、ただただ広大な農地が広がる。耳にする英語に南部の訛を感じるのも、 このあたりからだ。