ノースリッジ地震

 時は昨年、つまり1994年の1月に遡る。ちょうど19日発のロサンジェルス行きのチケットを持っていた私は、17日のニュースを聞いて訪問予定であったノースリッジの隣郡チャツワース友人の安否を確かめ、予定通りにロサンジェルス入りした。リトル東京の知人を訪問するなどして予備知識と準備を整えつつチャツワースを訪問取材した。ハリウッドの華麗な町並はダメージが痛々しく、フロアを広くとるために柱のスパンの広い自動車のショールームでは屋根が落ち、展示されていた新車を潰していた。リトル東京のレストランの主からは「アメリカの立ち直りの早さを日本に見せてやってくれ」と言われた。また、出会ったボランティアに駆けつけた男性は「もし日本で地震があったら、儂らが駆けつけてあげるよ。これまでの経験から、被災時に何がどう必要で、何をするべきなのかを良く知っているからね」と私に語りかけた。

○直下型地震の恐怖 −日本で体験してきた地震とは違う−

 21日からはチャツワース郡の友人宅に泊まり込んだ。そのうちのある日、同じ屋根の下で寝ているうちに、私にも直下型地震の怖さが分かる時がきた。大きな余震である。早朝、熟睡していた時、ものすごいパワーの、突き上げるようなショックに起こされた。「これは東京で経験していた地震(つまり日本で想定されている地震)とは違う」と、この時身をもって知った(私は東京で延べ5年ほど暮らしていたことがあり、地震も幾度となく経験している)。そんな直下型の特徴をを、日本の専門家はTVなどで、知ってか知らずか「日本であのような地震が起きても高速道路が落ちたりすることはない」と言いきっていたことは、皆さんも良く覚えておいでだろう。

○集合住宅の問題点 −外観からは判断できないダメージ−

 チャツワースで最初に私が目にしたのは、手厚くケアされる被災者と、迅速な建物のインスペクション。レッドテープやイエローテープの痛々しい家々が並ぶが、友人宅は岩盤上で難を逃れていたが、他の建築物、特に集合住宅や企業のビルに被害が目立つ。そして、一見何でもないかのように見える建物が、レッドテープで巻かれていたりする。構造的に危険であるかどうかは、専門家でなければ分からないという。友人宅に訪問者があった。彼の会社の社員で、近くのコンドミニアムに暮らす人だ。彼は、イエローテープ扱いとなった自宅のあるコンドミニアムの対策をしたいが、住民が集まらないという。個人住宅ならまだしも、集合住宅では住民の被災後の意思統一など、手放す、修理する、或いは改築するなどの対策上、乗り越えなければならない問題について困難が伴うことに、ここで気づかされた。

○フードスタンプ −被災対策物資−

 その友人宅を基地に、翌日から数日、ノースリッジを含む周囲を取材・撮影して回った。そこらじゅうに州兵が警護に立ち、重たい非常時の空気が漂っていた。ショッピングモールが大きなダメージを受けて立入禁止になっている。家々の塀は倒壊し、道路の亀裂も目立った。水道が断水状態となり、天井が落ちたスーパーマーケットが一週間と開けずに営業を再開。割れたガラスの代わりに打ちつけたベニア板に「We are OPEN」と大書きしてある。町に発生した長い行列はフードスタンプを貰うためのもの。被災者で困っている者は、数百ドル分の食料の買えるチケットが貰えていた。中にはフードスタンプを「$50でどうだい」などと言って他人に売り付けて現金化しようとする輩もいたようだが、概ね本来の目的に使われたようだ。このフードスタンプには、民間の商品物流をそのまま救援物資化する効果もあるのだ、と思う。

 公園はテント村に、公共施設は救護施設となり、軍用テントがベッドの備わった避難施設になっていた。人々は余震が怖くて自宅に戻れないと口々に訴え、赤十字による食料の配布(ランチを拝見したが、炭酸飲料とサンドウィッチ、それにデザートのお菓子や果物までが効率的にセットとして、行列した被災者に順番に手渡されていた)、常駐給水車による飲料水の提供の他、シャワーテントもあれば無料電話も設置されていた。

 人々はフードスタンプで店舗から入手した材料や配給材料で、バーベキューで食事。野外での火の使用の方が、室内での調理よりも遥かに安全だが、写真で見るとまるでアウトドアライフの雑誌の一駒のように見える。友人が言うには「キャンプ慣れしている我々ならともかく、彼らにはそんな経験はないんだよ。夜はかなり冷えるし、余震への心理的不安もある。未体験者には分からない辛さがあるのさ」。まさに、その通りだと私が心から分かるのには一年の経過を要した。

 夕食にレストランに出かけると、水はないから飲み物はコーヒーやソーダポップかアルコール類をオーダーするように頼まれる。これには首をかしげた。スーパーにはミネラルウォーターが山積みされ、避難している方々には給水車があったからだが、無料の水より売り上げの上がる飲料という、一種の便乗商法だったのだろうか。

 しかし、今になって思えば、あのノースリッジ地震では現地でレストランが営業できる程度の被害でしかなかったのだ。阪神大震災に比して、なんと被害の小さかったことか。

○記念Tシャツ販売 −被災者の経済生活−

 TVでニュースキャスターが連日の番組中で警告していたにも関わらず、週末には見物車両が、被害の少なかった他の地区から押し寄せ、僅かに渋滞も見られた。その見物人をあてこんで、あちこちで地震記念Tシャツを売る連中がいた。不謹慎?果たしてそうだろうか。フードスタンプで行政の救援に頼りきっているよりは、商品を売買して糧を得るという商行為は、むしろ当然だし、被災者自身がそうしているのなら、むしろ逞しいのではないだろうか、と今は思うが、当時は「日本だったらとうてい出来ないだろうな」と感じていた。私も2着ほど買って帰国し、日本で知人などに見せてみたが、反応は「日本ではそんなふざけたことはとうてい出来ない」というものだった。

 だが、彼国では違う。中には被災した映画スターの家のガレキを販売した強者までいた。これを「ふざけている」と憤慨するのは簡単だ。だが、良く考えてみると、そうしたことで復興への資金や被災生活を支える生活費を稼いでいるのだと気づく。そして、「ふざけている」ように見えながら、実は「真剣なんだ」と分かる。これは陽気さではなくて、たくましさなのだ。

○復興への危惧 −逃げ出す企業と税収減−

 砂漠の中を抜けている高速道路はダイナマイトで破壊され、対策道路をバイパスよろしく着工。帰路には各所で封鎖されているインターチェンジを眺めながら、その封鎖数が往路よりも減っているのに気づく。自動車社会ならではの対応の早さだった。

 ダメージを受けた企業の中には、その復興を諦め、他の地域へ越してしまった会社もあった。そうなると、そこで働く従業員も職を失うか転居するかになる。それは、地域社会全体の消費減となり、また、税収減を意味する。企業の流出を防ぐことが被災後の社会復興の鍵を握ることが分かった。

○精神的ダメージ −メンタルケアの必要性−

 もう一つ気になったのは、友人の奥様の様子だ。夜寝るにしても、パジャマ等に着替えることが出来ない。不安なのだ。その不安は、余震の時に飛び上がるように驚き、怖がることからも容易に察することができた。余震の恐怖が、人々に被災地を離れる気持ちにさせ、また、精神的な不安を掻き立て、睡眠不足や情緒不安定などの障害となって表面化する。そして、我が愚妻も、友人の奥方同様、夜着に着替えての就寝は被災後一月ほども出来なかった。

 復興を口で言うのは簡単だが、被災者が乗り越えなければならない物心両面のハードルは高い、と思った。


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©Daisuke Tomiyasu (OverRev) 1997