被災 −直後から一カ月間−
○地震を考慮していた家だが
1月17日未明。ドンッという突き上げを皮切りに、上下左右に激しく揺さぶられて目を覚ました。直下型地震。ノースリッジで体験した余震と似た、しかしそれとは比較にならない強い揺れ。「家が潰れる、死ぬ」と感じたその地震は、皮肉なことにノースリッジ地震と同じ日付の、良く似た時間帯に発生した。
数十秒に及ぶ揺れが収まると、あたりを静寂が包んだ。不気味な閃光が幾度か光った。それは雷のようだったが、違うのは地面から放たれた光だったこと。また、まだ暗い窓の外には、火災を三箇所に認めることが出来た。家族の無事を確認し、家の状態を撮影したのは、職業上のこと。夜が白んでくると、高速道路の倒壊現場も見えた。屋外に出て、近隣の方々の無事を互いに確認。ガス臭いぞという声に、皆が元栓を閉めた。
被災直後から「予想よりも早く来た」のが悔しかった。ウィンチ付き四輪駆動車は修理中で動かず、これにハイリフトジャッキやガレージジャッキを積んで走れば一人二人でも救出できたかも知れないと思うと、今でも自責の念にかられるが、直後から道路は渋滞し、自動車が通れる状態ではなかった。発電機も再整備前だ。だが、起きてしまったものは仕方がない。ダメージを受け、平行四辺形になった窓や亀裂の入った壁に、傾斜した床。2×4と言えども万全ではないし、自然の力の前には人間の造作など知れている。あれだけ配慮した配管も切れてしまった。居間・台所は食器が割れて散乱し、足の踏み場もない。だが、キャスターのついたパソコンラック上のコンピュータは、ラックごと動いて無事だった。
電話が通じることを確認し、ハンディ型アマチュア無線機からも情報を収集すると、東京の夜勤開けの新聞記者氏をたたき起こして一報を入れた。続いて発電機を動かし、固定用無線機やTVを稼働した。燃料は車の燃料タンクから抜いた。しかし、整備の行き届いていない発電機は、丸一日を過ぎようという頃から、タンク内の細かい塵をキャブレターが吸い込み、1〜2時間で停止するようになる。その都度キャブレターを分解掃除したが、調子が完璧になることはついになかった。
冷凍冷蔵庫の食品はクーラーボックスへ移し、キャンプ用品で明かりも取れれば煮炊きもできる状態を整えた。飲料水は買い置きのミネラルウォーターと、近隣のわき水が頼り。これらのお蔭で、さほど極端な不便はなかったものの、余震は不気味。安否照会の電話が深夜にかかることもあるが、余震やその不安と重なりとにかく眠れない。怖くて火の気が使えず、暖房が取れない。キャンプ用ランタンや電気ストーブでしのぐ。余震を恐れ、薪ストーブでの暖房を使いだしたのは一週間目からだったが、この暖を得た時はガスストーブにしなくて良かったと思った。
キャンプ用品が取り出せたのは、それらをコンテナボックスにまとめておいたからで、散乱した物の中から箱だけを、それこそ掘り出すように取り出した。車で出かける時のために、少々乱暴に扱ってもダメージがないような配慮もしていて、それが幸いしたのだろう、中身は無事だった。東灘区御影周辺などでは、マンションの一階駐車場が破壊されて潰れた車があった。車の中に常備していても、それが取り出せるとは限らない。
あえて電動にしなかったガレージのシャッターは、中で車が動いてそれ自身を圧し、変形させ、片側はガイドレールから外れてしまっていた。サイドブレーキの強力な車種なのだが、上下左右に強く振動させたような地震だったから、恐らく1.7トンの車体そのものが飛んだのだろう。セメントの床にはそれを想像させるタイヤ跡が残っていた。
罹災証明は基礎が破壊されているので「半壊」だったのが、後に地域全体が指定を受けて「全壊」となった。傾斜した家は、ドアの開閉も出来ない。二度目の大きな余震が来る前に全部のドアを開いておいたが、これが良かった。閉めたままにしていたら、窓から出入りするような事態になっただろう。勿論、家が倒壊すれば窓だろうが何だろうが、出られる場所から抜け出すしかないし、命があるだけでも、ということになる。実際、神戸の我が家の場合、いかに被害が出たとは言え、この程度で済んだのはむしろ運の良い方だったのだ。
○ボランティア活動
被災後、本職のために二日間は撮影して回ったが、その時、私の心からは「この被害の本当の意味はとうてい伝わらない」という気持ちが拭えずにいた。そういった気持ちから、三日目からはボランティアとして、我が家のもう一台の車「ピックアップトラック」で東灘区役所の物資輸送に出た。
ところが、ここで「通信連絡網の欠落」を思い知らされる。輸送が全く効率的に行われない。それは、意思伝達のための電話が通じない、或いは通じにくいという状況から派生したことだった。ならば、アマチュア無線がある。幸か不幸か、トラックでのボランティア活動に欠かせないガソリンがなくなったというのにガソリンスタンドが営業しておらず、トラックでの輸送のお手伝いは続行できなくなった。そこで、アマチュア無線連盟などと連絡を取った結果、折から無線機200台が無償投入される予定ということが分かり、無線家が無線通信網を作る方向で活動する、そのお手伝いをさせて頂くことになった。
この活動の中では、皆のトラックや乗用車で物資輸送も行いつつ、出来る範囲で、僅かでしかないが、可能だったことは迷う前に行ったつもりでいる。それが正しい判断であったのかどうかはともかく、今後の万一の事態へのケーススタディの一つくらいにはなったのではないだろうか。無線家諸兄は各地区で各々の立場や実態に合わせて活動されていた。その一人ひとりが精いっぱいの活動を行っていたのだから、総合的には、あのような非常事態下でやれる最善の活動の一つだったと思う。
今後、大きな地震があったとしたら、どのようなボランティアが必要なのだろう。最も大きな問題点は、そこで訓練時に参加した人材、想定されている命令系統に組み込まれた人材が、被災したために動けない可能性が高いことにある。それだけに、あらゆる災害に関して、アメリカのFEMAのように救助経験に長けた組織が求められるのは勿論だが、同時に、在野の有資格者や民間の資源は、ありとあらゆる方向で活用されるに越したことはない。例え有資格者が不在でも、目の前の困難を乗り越えるためにはその資源が活用できるような、様々な個性の潜在ボランティアが多数散在するような社会が、実は最も心強いのではないだろうか。
©Daisuke Tomiyasu (OverRev) 1997